神の光 2022年8・9月号巻頭言 法の上に立ち
新型コロナウイルスの感染状況がゆるやかながらも減少傾向にあったが、より感染力が強いれるオミクロン株の亜系統BA・5への置き換わりにより一挙に増加傾向に転じて、拙稿を書いていている今、第七波に入ったという。感染防止には従来の基本的対策の徹底が求められ、個々人の自主的な行動責任が問われて来る。前の参議院選挙では、安倍元首相が凶弾に倒れて民主主義の根幹が揺らぐほどの悪しき事件も起きた。言論の自由に対し、卑劣な暴力で口をふさぎ、人の命を奪うテロ行為は世界で横行しているが、断じて許されるべきものではない。
教祖様の生きた幕末から明治期は思想統制があり、言論の自由などは許されなかった。その時代は体制が大きく変わる動乱期、治安は乱れ、平穏な暮らしはいとも簡単に崩れて民は困窮し、弱いものほど塗炭の苦しみに喘いでいた。教祖さまはその苦しみを見るにつけては心を痛め、普く人を助けたいとの誓願から、只一途に「天下泰平」を祈り修行に邁進していると、「この窮状もやがて神さまが世直しし、救ってくださる」との思いに至り、これに心惹かれた人々が集まって来る。しかし、この思いは、権力側からみれば至って危険な体制批判に繋がりかねず、教祖さまの信心は官憲に目をつけられ、「むやみに人を集める不届き者」との烙印を押されて取り締まりはより厳しくなり、ついに明治六年五月に拘留され、明治九年四月までの間に都合四度の拘引を受けている。
後に教祖さまが教導職の資格を得、晴れて公に信心が出来るようになり、明治十四年に「御法殿」を建立するが、その御神前には「参明参天」と呼ばれる三本の鉄の大きな棒が石臼を土台にして立っている。親神さまの世界・宇宙観を示したものだが、この鉄の棒がまだ御神前に飾られず、庭に寝かせてあった時、教祖さまに対し信徒が「この棒は何に使われるのですか」と尋ねて来る。教祖さまは、「これは寝かせていればただの棒だが、立てれば法になる」と仰せられ、また、「法は尊いが、暴(棒)はいけないよ」とおさとしになったと言われている。棒は暴に通じ、難問に当ると人は力(暴力)に頼りたがり、法を無視し、その力で相手をねじ伏せ解決しようとする。この態度をきつく戒め、どこまでも法の上に立っての解決の道を教祖さまは求められている。重苦しい世相の中、「和合たんせい」のみ教えを護持する胆力を身につけよう。