北原白秋 多摩川音頭の碑
日本を代表する詩人、童謡作家、歌人。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど大正から昭和の戦前に活躍した人物で、地元登戸の盆踊りなどでよく踊られるている「多摩川音頭」の作詞者です。
多摩川音頭は、三世教主、伊藤睦男元教務総監が中心となり、青年団の為に稲田村(生田以外の多摩区全域)の様子を唄として、子孫代々に伝えたいという願いから、北原白秋先生に作詞を依頼して作られたものです。
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先生はこの依頼を快諾した後、度々登戸を訪れて丸山に寝泊りし、詩作にふけったようですが、酒宴に興じてなかなか出来ず、しびれを切らした青年団が菅から堰までの多摩川沿いを案内してまわり、風景や言い伝え、行事などをつぶさに見聞し、これがきっかけで詩作がすすみ、昭和3年に郷土の民謡として生まれたということです。
詩は31節からなり、郷土の名所、産物、地名などが見事に詠み込まれています。
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佐藤惣之助・佐藤紅緑・伊藤葦天 鼎座句碑
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鼎座句碑の石碑の写真 佐藤惣之助(さとう そうのすけ)
詩人、作詞家。神奈川県川崎市出身。
「人生劇場」「湖畔の宿」など、作曲家古賀政男と組み、多く
の名曲を世に送り出しました。
「句碑の句の中より雲雀鳴きいでよ」
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佐藤紅緑(さとう こうろく)
詩人サトウハチロウ、小説家佐藤愛子の父。
「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け、「少年
小説の第一人者」として知られ、一般には小説家、劇作家とし
ても有名でした。
また、正岡子規門下では、高浜虚子等と共に四天王の一人とし
てうたわれた俳人でもありました。
「天地のはじめの畑を誰が打ちし」
伊藤葦天(いとう いてん)
佐藤紅緑の門下生で、佐藤惣之助とは兄弟弟子となります。
丸山教三世教主。
俳人、郷土史家。
著書に『稲毛郷土史』『穂』『川崎風土記』『多摩滸』などが
あります。
昭和47年第一回川崎市文化賞受賞。
「ひとりだけ残りし信者炉辺親し」
なお、多摩区にある生田緑地・枡形城跡の山頂広場には、稲毛
三郎重成を偲んだ伊藤葦天の句碑が建てられており、そこには、
「馬場あとも やかたのあとも 秋の風 」
と詠まれた句が刻まれています。
十国柱(じゅっこくばしら)
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十国柱の写真 明治21年10月20日建立
十国柱の名前の由来は、下から
「 心国(しんこく)」「 人国(にんこく)」「 愛国(あいこく)」「 孝国(こうこく)」「 日国(にっこく)」「 生国(しょうこく)」「 桑国(そうこく)」「 明国(めいこく)」「 礼国(れいこく)」「水穂国(みずほのくに)」
と、十の国の名が記してあることから名づけられております。
この「十国柱」は、人が人らしく生きるための〝心の物差し〟すなわち人の道の規範、宗教倫理として教祖様が定められたものです。
人は心しだいで良くも悪くも生きられます。
ですから、十国柱の十の心に自分の心をあわせて信心に励めば、おや神さまの大御心とひとしい心になって、心身ともに健康な、生き生きとした心丈夫な生活をおくることができると説かれています。
しかしまた一方で、自分勝手な気ままな生活に浸かり、反省する事もなく心を放置しておくと、十に分けられた心のうちのどこかに乱れ、狂いが生じ、やがて心のホコリ(ストレス)となってたまって行き、心はからっと晴れるどころかジクジクと湿り、黒玉となってしまいます。
信徒は、常にこの〝十の心〟 に自分の心を照らし合わせ、心の掃除につとめることが肝要とおさとしにもなられています。
なお、教祖様は十国柱にたいして、「塔は下から組め」とも仰せられています。
一番下の心国を基点として、信ずる心を確固とし、一番上の水穂国まで一つ一つたんせいし、積み上げながら自己を形成してゆくこともまた修行とされています。
御試石(おためしいし)
明治20年旧8月12日より、七十二日間の断食行がおさめになったので、10月24日、教祖は夕方庭にお出ましになり、おりから石屋がころがしておいた房州石を見られ『一つ力をためしてみよう』とおおせられ、下駄ばきのまま左右上下四度、空樽でもあつかうようにかるがると四度さし上げて元の所におかれました。
参詣人もつめあいの役員も、あのお年で、七十二日絶食のはてに、かようなお力があるのは人間わざではない』と、みなみな大いに驚き、その石の目かたをはかってみたら、二十八貫あったといいます。
それからこの石を「御試石」と名づけて教祖様御修行の記念とし、今も御法殿の東側に百年余の歳月を経て、すでに角は風化し丸くなっておりますが保存されております。
皆様方もご参拝の折には、教祖様のご修行を偲びながらご覧頂きたいと存じます。
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