表2に掲載した上のポスターの元の図案は、百年前の「教祖三十天祭」時に出された三本(次頁参照)のうちの一本「丸山教祖三十天祭之図」を修正したものです。当時は大正デモクラシー(民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称)の影響を受けたのか、洋装の女性が教祖墓地(現・法聖地)の前で舞う姿が描かれるなど、当時としては斬新(ざんしん)なデザインを採用しています。また、もう一枚の富士山を背景にして、下部に桜をあしらいながら、神殿と路線図を表記し、左右の帯に下り藤を配したポスターも手が込んだものと見受けられます。当時の人達、ご直弟子の人も多数残っていられたと思いますが、教祖様を崇敬し、先祖の松霊を奉斎して盛大な大祭を奉仕する気持ちが伝わって参ります。


 今回、採用させて頂いたポスターは各天祭毎に出されたポスターの中から、劇画本「地の神一心行者の歩み」のデザイン・装丁や百二十天祭等において丸山のロゴを作成してくれたアイマージのデザイナー星野美江さんが選んでポスター用に復刻してくれたものです。
 因みに幟旗(のぼりばた)には「天祖参神(てんそさんじん)(あめのみおやみはしらのかみ)御宝前(ごほうぜん)」と書かれておりますが、明治32年に二世教主様が奥伊豆は青野の仙人窟に半年籠り、後に一巻として著(あら)わされた「神教」には「大祖参神(たいそさんじん)(おおみおやみはしらのかみ)」となっていますので、崇拝する神様の名称も時流によって変わっていることがわかります。これは本教が明治期から戦前まで一教独立が叶わず神道本局に属していたことに要因があるかと思います。
 教祖様の御信心の礼拝対象は当初、富士講の「五行身抜(ごぎょうみぬき)」の「参明藤開山(さんみょうとうかいざん)」や御絵さんと呼ばれる富士に木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の尊影でしたが、難行苦行の末に「元の父母」即ち「大元のおや神」に行きつきます。教祖様は「丸山は親に親をたずねての信心」と仰せられ、また、「源元(みなもと)に松人(まつひと)あるをしらずして枝葉をまつるしんのあやまり」とお歌に詠まれて、万物の命を生み出し、育て、取り入れる大元の神を「親神」とも「元の父母」とも呼ばれたのです。神教ではその点を重視し、「大祖参神」を「おおもとのちちはは」と何度も読ませており、現在は、「大元祖神(おおもとのおやがみ)」または「大元親神(おおもとのおやがみ)」と読みは同じで、「おや」の一字を「祖」「親」のどちらかをあてて使用しています。
 私たちは、気がつけば思議(しぎ)出来ぬ大いなるものからこの世に生み出され、一生が終われば、親の元へ帰ります。「親のことだ悪いようにはなさるまい」とは三世様のお言葉ですが、地獄極楽を超えた「お里帰り」の教理は、絶対の安心を頂くこと間違いありません。大松霊祭と併せて、教祖様のお松霊(みたま)を報恩感謝の心で祀りたいものです。

 表三に掲載した上記のポスターは、駿河国有度郡長田村(うどぐんおさだむら)(現静岡市駿河区の安倍川以西)の第三伊組から奉納された絵馬が元になっています。富士山の中に日の丸がみえますが、これは教祖様が明治七年九月二十一日より世間の迫害、助けた弟子の裏切り等で窮地に立たされて追い詰められ、この上は死を覚悟し、二十一日間の断食による富士入定に端を発します。
 その修行の七日目、憔悴(しょうすい)しきった教祖様の心身には苛酷(かこく)な状況が続き、ついには極限を超えて今にも死にそうな状態に陥ります。その時、夢うつつの中で尺取虫(しゃくとりむし)(恨(うら)み、つらみ、妬(ねた)み、怒(いか)りなどが凝縮(ぎょうしゅく)されて心象としてあらわれたもの)が全身にたかっているのに気がつきました。一瞬、「ああ、おぞましい」と尺取虫を払いのけようと手をあげますが、瞬時に「生(しょう)あるものは助け給え」との聖願が身体をつきぬけ、その手が思わず止まりました。すると、その時教祖様の心に変化がおこり、ぶるぶるっと身震いすると、尺取虫がバラバラっと落ち、その瞬間、心がすべての執着から解き放たれて忽然(こつぜん)と大悟(たいご)されました。急にあたり一面が明るくなり、背中があたたかいので振り返ると、室の北の戸に煌々(こうこう)と日の丸が現われていて、これが親神の神霊(みたま)と確証されました。


 後に、「これがお日の丸の拝み初(ぞ)め」と教祖様は仰せになり、以後、お日の丸は、親神の御神璽(みしるし)として定められ、信心の目印となって御神前に日の丸の掛軸をかけるようになりますが、その原型となった最初のお掛け物は左のものです。前の御大行を示すかのように、大悟した富士八合目あたりに一尺の日の丸、それに和合の象徴の松と生まれかわりのしるしとしての餅が描かれたものです。教祖様は親神様の仰せに従い、修行満日の十月十二日に一死更生(生まれかわり)の決意をなされて翌日に下山なされますが、その後も吉田での拘引(こういん)、谷村での金縛り、一寸二分の足の豆による百日の戒めと難儀が続き、登戸の自宅に帰られたのは十一月も終わり近くの二十八日でした。
 この日は待ち構えたように親類縁者が集まり、信心を止めねば離縁とばかりに寄ってたかって迫り、神様に信心のお暇乞(いとまご)いを願い出ると、教祖様は神様の戒めにあって息も絶え絶えとなり、これを見ていた奥方のサノ様は「もはや夫の命もこれまで」と覚悟を決め、教祖様の後を追うように短剣で自害をはかろうとなさる始末。あわてて止めに入った母親と親類の者に向かってサノ様はひときわ声をはりあげて「お止め下さるなら、これからはかれこれいわず、信心をとげさせてください。さもなければこのまま神様のところへ行かせて下さい」と申すと、さすがに身命をかけた一言に対し、頑(かたく)なに反対していた親類も折れて信心の道が開けてゆくのです。晩年、教祖様はサノ様のことを「おっかさんは信心の導き親だった。あれがいなかったら修行の半分もつとまらず、世間のもの笑いになっただけだろう」と仰せられています。


 教祖様の信心初めの拝みの対象は、右の「五行身抜(ごぎょうみぬき)」の「参明藤開山(さんみょうとうかいざん)」や御絵さんと呼ばれる富士に木花(このはな)咲耶姫命(さくやひめのみこと)の尊影の掛物です。これが先述した明治七年の富士入定修行の大悟によって前頁の富士とお日の丸のお掛け物に変わります。そしてその後の一般信者向けに出されましたのが、右下図の掛物になります。


 そして明治十四年に富士を「心の山」と開かれますと、お掛け物も右のように当然変わります。そして戦後、宗教法人法が施行されたのを契機に、三世様が慎思黙考(しんしもっこう)五十五年間の修行の末に「教祖様がもう少しうつし世においでになったとすれば、これは当然日の丸一つに帰一(きいつ)せしめられたに相違ないと確信する様になり、そして教祖様にたいして一心になって思うところの問いに『ゆるす』というお言葉が心にひびいた」ことで、今のお日の丸の形へと昇華させたのでした。


 このポスターの元となった絵馬(左上)は、おそらく明治十年前後に奉納されたものと思われますが、「日」一つの信心に進化していく初期の過程を示す貴重な資料なのです。
 なお、この機会に、天祭毎に作成された現存するポスターを掲載します。