神の光 2025年3月号巻頭言 天祭を迎えて
立春を過ぎて春めくと思いきや、寒の戻りの様に今冬一番の冷え込みが続き、本庁境内の木々も固く蓄を閉じている中で、大教殿横の紅梅は早咲きの習性か一輪二輪とほころび、寒気に負けることもなく気がつくとすでに八分咲きとなっていた。真っ青な晴天と日増しに伸びる日射しの畳の目ではないが、強まる陽光に照らされて紅色の美しさが際立っている。直に弥生の声を聞けば、いよいよ二十九、三十日の両日に立って待ちに待った立教育五十年の祝祭と教祖百三十天祭・大松霊祭の大祭が斎行される。
教祖さまは、文政十二年七月十五日のお生まれで、明治に年号が改まった時が御年四十歳、幕末から明治維新に至る動乱の時代を生きられた中で、当初は中村屋(教祖さまの家の屋号)の穏健な「柳の大蔵」として不足ない暮らしであったが、幕藩体制の弱体化と共に江戸の膝元のこの登戸周辺も治安は乱れて乱暴狼藉が横行し、身を粉にして真面目に働けど、弱い者は虐げられ、困窮する民をみるにつけては心を痛められて発心し、「日本神国、どこかにこの窮状をお救い下さる神がありそうなものを」と神(親)たずねの修行に専心され、その結果、元の祖神に対面し、「よわいものほど助けたい」との親心を相続して「天下泰平・普く人助け」の本願を立てて開教するに至る。
後には丸山の御開山と崇められるが、そこに行きつくまでには度重なる親神さまのお戒め、世間の迫害、弟子の裏切り等の狭間で、富士入定を模索するほどの命を賭した難行苦行の連続だった。その教祖さまの根幹をなすみ教えが「和合たんせい」であり「しまつつかきぎょうつしみ」。絶筆となった最後の書行の「子」もしかり。「
」は一天四海、即ち全世界を表しており、人は「親神の子」ということ。「皆々よくよくこれを自覚して我をはらず、折角この世に生み出された命であれば、互いを慈しみ和合するように。奢るべからず、つつしめ、つつしめ」との遺訓である。思えば、維新の動乱期の中で、その一途修行に心打たれ、一厘の光明、希望を見出した人たちがそのみ教えを信じて入信され、次世代に継承されて今日の無事があるのであれば、教祖さまの大慈悲、先祖の思いを篤と偲び、報恩感謝の心で百三十天祭を迎えよう。
《もくじ》
⚫︎巻頭言
―天祭を迎えてー
百三十天祭を迎えるにあたり ⋯⋯⋯教務総監 関達雄
教祖さまの生い立ちとお里帰り・葬送の様子
丸山教祖百三十天祭 奉賛会からのお知らせ
⚫︎祭事日程
催し物のご案内
主祭儀斎行の神殿・礼拝施設のご案内
駐車券及び宿泊申込書
⚫︎特別ごたんせい/神の光ご寄付