神の光 2024年10月号巻頭言 ゆるされて
去る八月六日午前七時半。大教殿広前で富士登山の出立祭が斎行され、教主さま主座に て安全祈願の御神前が立てられる。終わって教主さまより、教祖さまの御影が先達に手渡 され、登山の参加者に向かっては、折角のご修行であれば、登山の長く苦しい道のりを一 歩また一歩と歩みを続ける中で、ただ漠然と登らずに、己が人生の歩んで来た道を振り返 り、父母などの深い関わりを持った人に対して、先ずは「世話になったこと」次に「迷惑 をかけたこと」そして「お返ししたこと」の三点をテーマにして内観し、心に浮かぶ一つ一つの出来事を偲びながら登ってほしいとのおさとしが下がる。
登山の心得「五訓」には、「元の父母にあふ心にてのぼる事、天明海天をとなへつゝのぼる事、身もきよく心もきよく登ること、ひとしの心に助合ひて登ること、何事も修行とこゝろえてのぼる事」とあり、教主さまの下されたおさとしの課題に心をおいて登り行け ば、五訓の心得とも交錯することから、心して登ろうと身が引き締まって来る。
しかし、道中は甘くはない。七合から上の岩場の長丁場に差し掛かると、足は上がらず 遅れがち。息は絶え絶え、ただただ必死になって登るのみで、己を見つめる余裕など微塵も出て来ない。日頃の不摂生を嘆けども、これも自業自得の故なれば今の辛さを受け入れ中は土砂降りの雨の洗礼も受けて、やっとの思いで本八合の定宿に着く。
体力に自信のないまま頂上ご来光を目指して夜半に出発。思ったよりも身体は軽く、心も静けさを取り戻している。前が閊えて立ち止まっていると、ふと教主さまのおさとしが 心に浮かんで来る。思えば一番身近なお袋には世話も迷惑もかけっぱなしだった。重篤 な病にあっても、意識が戻れば自分の事をきておき「お前は大丈夫か」と心配する始末。 お返ししたことなどはまったく思い浮かばず、親の恩惠、慈悲を受け、すべてをゆるされ て今があることに気づく。思えば国学者で歌人でもあった窪田空穂の「今にして知りて悲 しむ父母がわれにしまししその片思ひ」の和歌が胸に染みて来る。教祖さまの「父母天地 の如し。師君日月の如し」もしかり。今ここに生かされている有り難さを噛みしめよう。