神の光 自戒の心を 平成23年3月号
過日、青年会の人達と同行して岐阜県瑞浪市にある丸山教土岐教会にお邪魔した。
教会は市街地から外れて、山間(やまあい)の静寂な場所に佇んでいる。朝、目を覚ますと、外は冬景色、深々と降る雪に一層静けさが増し、否応も無く普段の喧噪さから離れて心は落ち着きを取り戻してくる。神前に額ずき、本来の自分を取り戻すには絶好の環境である。
神前の間の欄間にかかっている額の一つに、三世さまが描かれた「泰心一教の鏡(たいしんいつきようのかがみ)」の絵があった。これは教祖様が明治7年11月、富士八合目にて入定覚悟の二十一日間の断食修行を終えて、迎えの者と富士吉田から帰路につかれた道中で起きた出来事である。
神様から「東になし西になし、北道(きたみち)帰れ南にあり(来た道帰れ皆身の内にあり)」のお告げによって往きと同じ相模路を取ろうとした時、迎えの者から「これでは甲州街道よりも一日多くかかる。迎えに来た私の身になって何が何でも一緒に連れて帰る」との言い分に流され、結果世情に引かれて神様の指図に逆らい、谷村の分岐で両足の裏に一寸二分の肉刺(まめ)を頂く戒めを蒙(こうむ)られた話である。
その絵は、教祖様が二本杖で、やっとの思いで立っている痛々しいお姿で描かれているように、この肉刺の傷が癒えるまでに百日を費やしたことから、「一日をもうけようとして百日の戒め」と教祖様は後に自戒され、「お前達も世情(欲)に引かれて神様から戒めを受けぬように」と、表玄関の鴨居の上に、この時の一寸二分の肉刺を象った「門守(かどまもり)」を掛けるよう定められている。
3月は年度末。何かと忙(せわ)しく、心は落ち着かない時季だ。うっかりすると自分を見失う。教祖様はほかにも「忙しいとは欲の掻き分け」と解き明かしていられれば、よくよく「しまつつつしみたしなみ」のおさとしを大切にし、世情に惑わされて百日の戒めを蒙らぬように用心したいものだ。
浮かれることなく神前で自己を見つめ、教祖様のような自戒の心を育てよう。