神の光 2026年3・4月号巻頭言 今を大事に

三月は教祖さまの祥月命日の月。昨年の今頃は教祖さま御帰天より十年毎に営んで来た十三回目の天祭「教祖百三十天祭・大松霊祭」の準備に追われて上へ下への騒ぎだったことが懐かしい。振り返って、この大祭が無事に斎行出来たのも、教祖さまのみ教えを信奉し、丸山信心に心をおいて「なすべきたんせい」に真摯に取り組んで下さった教会長重立、教師、教信徒の皆様のお蔭であり、また、当教団に心を寄せて下さる地元有志の方々のご協力に他ならない。

教祖さまは、明治二十七年三月三十日午後十一時、享年六十六をもって御一代の大行を終えてお里帰りなされたが、史実によると、その日は朝から雲一つない快晴、しかし夜の十時頃からにわかに一天かき雲って大雷雨となる中、かすかに教祖さま自ら唱える天明海天のお声が止むと同時に息を引き取られたという。お机から出て来た辞世の句は、「身はここに心はふじのふるさとに おやのみそばに心あんたい」と皆様ご存じのお歌。

命について、教祖さまは「今日までつとめたこの行心へ、元の父母から何一つとしてわからぬことのないまでに教えをいただいたが、ただ寿命の一つは人にいうことができぬ」仰せられ、また、「身体は借り物、かえさねばならぬ」とも言われている。思えば、この一連のお言葉をとおして、大いなるものの加護によって生かされ、有限の寿命の中でお前は如何に生きるのか、と教祖さまに問われているのだ。

折角大いなるものから生み出された命、にもかかわらず思うようにならぬと不平を募らせて何時しか感謝を忘れ、気がつけば時に厭世的な自分がいる。一日を振り返れば、お蔭を頂き有り難いと思えることはきっとある。今無事ある事ひとつ取っても、それが当たり前すぎて有り難さに気づかぬ始末だからかもしれぬ。毎日の生活は全てが一期一会であれば、覿面の今に心をおいて有り難いと思える「気づき」の芽を育て、不平を心中から追いやって人を慈しみ、寿命いっぱいたんせいに生きることが教祖さまのみ教えに適う道ではないだろうか。「なにごともたんせい」と心得、今を大事に生きよう。