神の光 2025年12月号巻頭言 譲り葉のごとく

今年も早師走の声を聞く季節となった。この一年を振り返ると正月気分も束の間、去る三月の教祖さま祥月命日に斎行した十年に一度の伝統行事・百三十天祭の準備に追われて、『一月往ぬる二月逃げる三月去る』ではないがあっという間に月日が経って行き、上を下への騒ぎの中にも主たる御法殿の御屋根の改修、天祭並びに大松霊祭の盛儀が無事に斎行出来たことは何より有り難かった。

この十年毎の天祭、十年ひと昔と言うように、主だった人の顔ぶれが新しい人に入れ替わって行き、思えば何時しか年長者の部類に入り、その間順番とはいえ多くの先輩諸師を見送って来た。その営々と続く命の営みは、古い人が新しい人に次の命の営みを託すかのようで、思わず、常緑樹でありながら春に枝先に若葉が出ると、古い葉がその場を譲るかのように落葉する「ユズリハ」が浮かんで来る。

このユズリハ、漢字を当てると「譲り葉」、新しい葉が古い葉と入れ替わるように出てくる性質から「親から子へと家が代々続いていていく」ことを連想させる縁起木とされ、正月の鏡餅飾りや門松にユズリハを結んで、年神(正月様)を迎える目じるしとしたともいわれている。元の父母から先祖を通し、親から子、親から子へと連綿と続く永遠性の中で、 一代一代は有限の命であることを思う時、否応もなく命の限りがあるからこそ、かけがえのない命、尊さに気づかされる。

教祖さまは、有限の命が終る、即ち死を「お里帰り」と仰せられ、その命は生み出した親の元へ帰るのだとおさとしになられて絶対の安心を説かれているのも、折角生み出された命であれば、不平不満に生きず、信心で心を磨いて「今を大切に生きよ」との思いからである。先人の遺された丸山信心に対する思いも同じこと、生き方は人様々だが、その生き方を通してのお蔭、ご縁をいただいて今の自分があるのであれば、年の暮れ忙しさに惑わされることなく、篤と偲んで掃除相続し新しき年に生かしていきたい。「こん日の御恩を知らず。これをあさましきこころというなり」ともあればなおさらの事。