神の光 2024年12月号巻頭言 年の暮れに思う
今年も早、師走の声を聞く時季となった。折角授かった命、死に急いでいるつもりは全くないのだが、季節の移ろいがあまりに早く感じられる。拝み詞の「神教」の一節にあるように、「天の理を性と爲し。性の用を心と為して」の心境であれば「心常に氣を使ひて。氣に使はるる事なし」で物事に右往左往することもなく、主体は何時でも自分にあるはず。しかし、気がつくと得てして、知らず知らずのうちに日常の茶飯事に囚われていて、絶えず齷齪している自分がいる。
師走、諸説があるらしいが、一般には京の都で一年の罪障を祓うための経をあげる為に、僧侶が貴族の間を奔走することから生まれた言葉と聞く。外には、年が終わる月のことから「年果つ月」と言い、また、四季が果てる四極月から「極月」との異称もある。一年最後の月、何かと忙しない日が続き、慌ただしさを感じる月であるが、その一方で日増しに短くなった日射しが冬至をさかいに、春に向かって日が伸び一陽来復となることから、立春を待つ「春待月」や、正月が一年の初めの月なことから「太郎月」、これに対して十二月は末弟となり「弟月」との呼び名もあり、こちらは一瞬忙しさを忘れて愛くるしい語音を感じて心が温まる。
年末が近づくと「納める、終う、払う」等の言葉を聞く機会が多くなる。煤払いや大掃除もしかり。家に溜まった一年の埃や垢を払って正月を迎える大切な行事だが、それと共に信心の本質に立ち返っての心の掃除も大事だろう。教祖さまのお言葉に「熊手箒は浮き世の掃除道具、天明海天は心の掃除道具」とあり、あらためてこの一年を振り返ってみれば、何を差し置いても今日無事ある事に思いが至って感謝の念が湧いてくる。「忙しいとは欲のかきわけ」とのおさとしもあれば、心してしまつ、つつしみを忘れず、来る教祖百三十天祭に向けてたんせいにはげみたい。