神の光 2024年11月号巻頭言 愛子さんを通して

本庁境内には、佐藤紅緑、佐藤惣之助、伊藤葦天(三世教主の号)の師弟による鼎坐句碑と北原白秋の「多摩川音頭」の一節「多摩の登戸六郎兵衛さまよ 藤は六尺藤は六尺いま盛り」の歌碑などが建立されており、登戸界隈の史跡を巡る案内冊子には「丸山教の文学碑」と紹介されて、各地の文学愛好者が今も訪れ後を絶たないでいる。

三世様は、お若い頃は文学を志し、特には佐藤紅緑に師事して俳句に没頭していたくだりがある。過日、たまたま立ち寄った本屋に紅緑先生の娘である佐藤愛子さんの「思い出の屑籠」の初版本が並べられていた。去年の十一月の出版で、その序文に、愛子さんは同日に満百歳になるという。素直におめでたいと思うが「九十歳。何がめでたい」との反骨精神の著者もあれば、百年生きて「絞り切ったダシ殻」の身といいながらも、まだまだ壮健に振舞われるのだろう。本の内容は、愛子さんの幼少期から小学校時代までを思いつくまま書き残されていた。その中に、紅緑先生の人柄が髣髴とされる場面がある。当時夜の八時と言えば子供の寝る時間。愛子さんは子供部屋に行く前に階段の下に行き、二階の書斎に向かって精いっぱい声を張り上げて「お父ちゃーん、おやすみなさーい」と言うのが毎日の日課となっていた。すると上から「おう」と太い声が落ちてくる。愛子さんにとって、この「おう」は幸福の源泉で、大きな力に守られている安心感があり、九十九歳(去年の誕生日前)になった今もあの「おう」は耳に蘇ると言う。因みに、丸山の信者なら「天明海天」か、安心の言葉を持てること何より心強い。

その後、何気なく末尾に近い章を開くと、愛子さんが生まれる前の東京は江戸川近くの音羽に住んでいた時の事を愛子さんに話された文が目に止まる。その頃の紅緑先生には俳句の弟子が三人いて、作ってきた俳句を添削して二十銭から三十銭の添削料を取り、それが家の収入だったという。三人のうちの一人は、「糸屋の小僧でたいした才能はなかったが、後に有名な作詞家になった佐藤惣之助だ。もう一人はみなも知っているだろう。伊藤葦天だ。彼は登戸の太陽信仰の教祖の孫で、なかなかの熱血漢だった」といっている。後の三世様の一言に「俳句が自然観入を促し、本当の神に出会えた」と仰せられているのは、思議出来ぬ親神のお働き、大いなるもののお導きに思えてくる。