神の光 2024年6月号巻頭言 真心を遺して

過日六十一歳の若さでお里帰りされたHK刀自の神葬祭を奉仕させて頂いた。刀自は岩手県の生まれで地元の高校を卒業して上京、勤めた会社でご主人と出会い、互いに心惹かれて結婚された。子供には恵まれなかったが夫婦仲はとてもよく、刀自の人柄はご主人が略歴に書かれた通り「真直にして温かく、無二の明るさでみんなの人気者」というように誰からも好かれていたようだ。新型コロナウイルスの感染が第五類になったとはいえ、コロナ禍以後は家族葬、一日葬が主流になる中、ご主人は刀自の最期の看取り、親しく交流のあった人たちに一人でも多く送ってもらいたいと通夜祭、神葬祭をコロナ禍以前の例に倣って決行した。刀自との最後の別れ、花入れの時には、大勢の人たちが刀自の人柄を偲ぶよう親しく棺に手をかけるなかで、義理のご両親にもよく仕えたのだろう、姑が刀自の頬に手を当て、「これまでありがとう」と語りかけた言葉が胸を打つ。世間でいう嫁姑の諍いなど微塵もなく、刀自がいかに人を大事にしていたかがわかる一瞬だった。

刀自が難病を患ったのは八年前。以後ご主人に支えられての闘病生活。新薬、新治療法が開発されれば、高額な医療を惜しまずに治療に専念した。その甲斐あって病も快方に向かって元気を取り戻したかに見えたが、残念ながら完治には至らず亡くなられた。その息を引き取られる一時間前のこと、付き添っていた姪御さんが時間も夜半となり、容態も落ち着いているので帰途についた後に急変、ご主人が駆けつけて最期を看取られるが、手元にあった小さな暦のその日の日付欄には、最後の力を振り絞って「おとうごめん」と書かれていた。後でご主人に伺えば弟さんを四十二歳で亡くされているという。またしても父親より先に往く自分、父親に対する申し訳なさの中に刀自の人間性、真心が凝縮されている。思えば教祖さまの奥方が大病を患った時、教祖さまは、「家内は家つきの娘、自分は他より養子の身、家内にもしもの事があっては、さだめし両親がなげくであろう。なにとぞ自分の一命をちゞめても、家内の病気を本復させて下さいませ」と本復する迄の百日間、寒中水垢離をとって祈り続けられた記述が教祖伝にある。後に遺す親を思う刀自の真心もこれに勝るとも劣らない。