教祖様は、文政12年7月15日に武蔵国橘樹郡(たちばなぐん)登戸村字富士塚(現神奈川県川崎市多摩区登戸)、農業清宮源六(きよみやげんろく)の次男に生まれました。
幼名を米吉(よねきち)といい、14歳から24歳まで隣村宿河原の叔母の家で百姓奉公を勤められた後、伊藤家の婿養子となり長女サノ様と結婚。
名を六蔵(ろくぞう)と改められ、後に家督相続して家名の六郎兵衛(ろくろうべえ)を襲名されました。
明治27年3月30日、享年66歳でお里帰りなされています。
教祖様は幼少の頃からおとなしい、御信心の好きな性質(たち)で、成人後は辛抱強さとやさしさを兼ね備えた勤勉実直な方でした。
一例を上げると、村一番の働き者で、慈悲深く、人と争うこともなく、それでいて芯が強いところから、何時しかそのお人柄を「柳に風(雪)折れなし」の諺にかけて、若い頃は「柳の六蔵」と渾名(あだな)されたという逸話(いつわ)も残っています。
その教祖様が、幕末から明治維新の動乱期に遭遇して感じられた事は、「天下は乱れ、国家平民は塗炭(とたん)の苦しみをなすとは、いかにも嘆かわしいことである。
いよいよ天下泰平五穀成就、普く平民を助け救わんとの心が盛んに起って来た。
そこで難儀な修行を始めたのである」との切なる思いでした。
そして、「日本六十余州、八百万の神という。どこかにこの窮状をお救い下さる神がありそうなものを」との思いから、ひたすら親(神)尋ねの修行に打ち込まれ、やがて明治3年の秋、百日間におよぶご家内の病気平癒の祈願を契機にして、親神様から「地の神一心行者」の啓示をお受けになられました。
これよりは、「明治7年の生」における決死の入定修行を始めとして、幾多の難行苦行の修行の末に、教導職の認可を受けられ、「天下泰平・普(あまね)く人助け」を本願として開教するに至りました。
教祖様は、弱い者ほど助けたいとの慈悲深いご精神を根底におき、絶えず救世者としてたんせいにたんせいを重ねてのご一生を送られた方でした。