教義のあらまし

親神信心=精神の安定

丸山教々信徒が、朝夕御神前で拝唱する『おさとし』の冒頭に、「丸山は親を尋ねる信心なれば、元の父母(ちちはは)を親神様と仰ぎまつりて」とあります。
親神とは、宇宙の根元・万物を産み殖やす者・万人を護り育てゆく力であります。
私達は神様と親子関係で結ばれ、親神から一分心(いちぶしん=親ごころ・親の働きの一部)を相続し、地上で親神の生(しょう=営み)を代理・代行致します。
この信念が確立しますと、親神と同根同泰の境地に安住し、何のおそれも、心配もない、どっしりした人生が送れるのであります。

かん清浄生活=歓喜の人生

宇宙いっぱい輝くお光の中に、親神の生(しょう)の具現であるこの天地が、無始より無終に展開しています。そこには本来曇りや憂いのあるべき筈もありません。
この大生命を貫いて、脈動する根元の大法則を、法(ごほう)と申します。
法に正しく随順する者は、親のふところに遊ぶ子供のように、明るい喜びに満ちた命を生きられるのだよ」と教祖は懇篤に御教示下さいました。
もしこの地上に、明るくなく、楽しくもない人生があるとしたら、それはどこかが誤っている。何よりもまず、自分自身のかん(根本自覚)が、曇り濁っているからです。
日常生活の垢のため、とかくかんが曇り、濁ることはやむを得ません。
これを法の光に当てて祓い清め、たえず浄化しながら、前進また前進してゆくのが、丸山教信徒の〝かん清浄の生活態度〟であります。

等しごころ=万人愛への道

かん清浄のもう一つの基本は〝ひとしごころ(万物平等観)〟であります。
宇宙に存在するものは、形の大小・寿命の長短・能力の差異等々、千種万様の差別相を展開しているけれど、実は差別の儘、平等に神様の生(しょう)を担当している。
その意味で、お互いの地位・功績・価値は対等で、〝本来平等〟こそが、天地の実相であります。この平等観の境地を、仏教は〝無〟という言葉で表現します。
けれども丸山教祖は、
「無ではむつかしすぎて民衆がわかりにくい」
からと、いろいろ難行苦行して究められた結果、
「無という字は、人・四・心の組み合わさったもので、本当は(む)だ」
とお開きになり、「の一字〝ひとしのしん〟と思うべし」との、重要なおさとしを示されました。
この〝等し心〟に透徹しますと、日常ありふれた心理的・感情的葛藤や、社会的抗争の悪習が洗い流され、代って人間本来の清浄性である〝万人愛〟が、泉のように噴きあげて来ます。
先ずこの泉を掘り当てた者こそ、真実平和運動の有資格者であります。

天明海天(てんめいかいてん)と身祓(みはらい)=心身浄化法

以上は観念的なかん清浄法ですが、丸山教信徒はまた、日常具体的な信心行として、天明海天の御神言を唱え、身祓の授受をたんせい致します。
天明海天は主として朝夕の御神前(神拝)のとき連続拝唱し、光心(こうくうしん)の境地を得て、心底息の根(かん)の垢や埃りを祓い、清新な活力をよみがえらせて、再び生活場面に立ち向かう修行です。
また身祓は、行徳を積んだ導者が、信心のスキンシップと言いましょうか、信者に接近して、その内面から病気や苦悩の原因を吐き出させ、代りに自然治癒力を呼び戻してやる行法です。
両々相侯ち、心身の浄化作用が完壁に効果を挙げることを、掃除相続(そうじそうぞく)と申し、丸山教の重視する信心行であります。

勤労(たんせい)と節約(つつしみ)=最高の教養

教祖は常に、〝勤労の喜び〟と、〝節約の貴重さ〟を強調なさいました。
神様の生の具現であるこの世界は、それ自体が巨大な勤労態です。
私達もまた、天地のリズムに乗り、積極的に勤労するときこそ、最も自然に、命を楽しみ生きられるのです。
必ずしも肉体労働だけでなく、今日では学問・芸術・レジャー産業の活動も、勤労と呼ばれるべきですが、何よりも先ず、各人の能力を全開して働き、働くこと自体を喜び、誇りとするならば、お互いに奪うことも奪われることも無用で、本当の平和と安定が確立致します。
このことを丸山教祖は、処世観の上で特に力強く教示されております。
次に節約とは、極端な物資不足時代にのみ有用だった、素朴なケチケチ主義ではありません。
物の価値を最も有効に活用することが、本来の意味の節約です。
有り余る文明商品に囲まれながら、前代未聞の欠乏苦にのたうちまわる現代人は、大海の中にいながら、水がほしいと大さわぎしているようなものです。
恐るべき浪費癖から離れ、教祖の「しまつ、つつしみ、たしなみ」の法に覚めるとき、忽ち我々の欠乏苦は消滅し、本来大物持ちである事実に気づくのであります。
最高の教養である「勤労(たんせい)と節約(つつしみ)」に速かに習熟し、教祖の「文明をとりて天明を肥やせ」の教示に救われましょう。

和合たんせい=真の平和運動

丸山教祖は、「天下泰平・普(あまね)く人助け」の悲願を、親神から委任され、これを立教の原点に掲げられました。即ち超人的な心身浄化の御修行で、最高に磨き澄まされた御心鏡に映った親神の御意志を、教祖が相続なさったものです。
末端の教信徒といえども、正しい親神信心に立ち、明るき世界に住み等し心に覚めた者は、誰でもこの悲願を相続、真実の平和運動に立ち上がるのであります。
人間界につきまとう複雑な対立や抗争を、むなしく放置すれば、社会は磨滅し、世界は共倒れに陥るでしょう。
不断の和合たんせいに支えられてこそ、人類は進歩発展へ向かうのです。
真の平和運動は、丸山教徒の最も重要な使命であります。

長十帰(おさとがえ)り=完成の喜び

親神への堅固な信心で内面的に安定し、かん清浄行を怠らず、勤労を楽しみ節約に徹し、和合たんせいに励む一生を送った者は、肉体の死が訪れても、魂は富士(不死)へ帰り、小生命の生滅を越えて、永遠の大生命と合致します。
それゆえ何の悔やむことも、恐れることもなく、にっこり笑って永生へ旅立つことができます。
丸山教では、死ぬことを「親神の家へお里がえり」と申し、死もまた楽し、であります。

(丸山教本庁教務課編) 

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