御法殿屋根改修工事
再来年の三月に斎行する教祖百三十天祭に向けて、奉賛会の記念事業「御法殿屋根改修工事」がいよいよ始まります。
御法殿は、教祖さま縁(ゆかり)の本教発祥の元となった神殿です。この御法殿の御屋根を葺く記念として、本庁に参拝される教信徒の皆様に実際に使用する銅板の御たんせいをお願いしております。ご奉納金は、
銅板一枚につき
金三千円
です。協賛して下さった方には、ご芳名を銅板にお書き頂き、また、芳名録に記載して後世に残します。なお、遠方等により来庁できぬ方でもご協賛のお気持ちがありましたら、代筆させて頂きますので、本庁事務局宛にご連絡賜れば幸甚です。
御法殿建立のあらまし
御法殿は当初は「御本殿(ごほんでん)」と称しました。明治十四年四月に竣工し、同月十八日より二十二日までの五日間に亘って、盛大に落成遷宮式(せんぐうしき)が斎行された当教団最初の神殿であります。
御本殿は、四気(しき)(春夏秋冬=時間)四方(しほう)(東西南北=空間)の時間と空間をかねそなえた「今ここ」に生かされているという法(みおしえ)にのっとり、建物の大きさは四間(よんけん)四方、総松材造りで屋根は茅葺(かやぶき)でありました。これより一年前(さき)、十三年の七月一日には、多摩河原で信徒十万の祝祭を斎行しておりますが、この時参集した信徒に向かい、教祖さまが手ごろな石を一つずつ丸山教会本部(現本庁)に持ってくるように仰せられたので、河原といわず野道といわず皆めいめいが思い思いの石を拾ってきたということです。教祖伝には、教祖さまのお言葉として、
丸山はこの世の土台役をつとめるのだ。人に 見える屋根や柱の役にはたれでもなるが、人に 見えない、土台になるものはない。丸山の信徒 はこの地形石(ちぎょうせき)をつとめる気で信心せよ。
と書かれており、続いて
その石を、おりから工事にとりかかっていた 御本殿の地形石に使われましたが、その数がお およそ六万個はあったというから、この祭りの 盛大さかげんがわかりましょう。
と記されています。
なお申し添えますと、御本殿の神床の隅柱は、前年の祝祭の折、祭場の中央に設けられた櫓(やぐら)(図参照)の、差渡(さしわた)し一尺、長さ三間の四本柱を使用しています。
御本殿落成遷宮式には、当時本教が所属していた扶桑教の宍野半(ししのなかば)管長が斎主を務め、その時読まれたと思われる祝詞が現存しています。
「掛巻毛畏支大元乃父母・・・・(かけまくもかしこき おおもとのちちはは)」で始まり、「大御神乃美道乃貴支道乎天下尓教幣弘米衆庶乎濟波牟止志弖教徒権中講義伊藤六郎兵衛千々尓思比乎焦志・・・・(おおみかみの うましみちのとうときみちを あめがしたにおしえひろめ もろびとをすくわんとして おしえご ごんちゅうこうぎ いとうろくろうべえ ちぢにおもいをこがし)」云々と続き、「武蔵圀橘樹郡登戸村乃此乃所乎?比清米宮處乎造利奉仕事乃由乎聞食止教徒打集志米?桑教會教主中教正宍野半畏美畏美毛白須(むさしのくに たちばなぐん のぼりとむらの これのところをはらいきよめ みやどころをつくり つかえまつることのよしをきこしめせと おしえごうちつどいしめ ふそうきょうかいおしえのぬし ちゅうきょうせい ししのなかば かしこみかしこみももうす)」と書かれています。
教祖さまの教導職の階級は、その時点では、「権少講義」でありましたが、内務省から同年四月二十六日付けで「権中講義」に補すとの辞令が出されており、宍野管長はすでに内示を受けていたのか、祝詞の文中は「権中講義」となっているのです。宍野管長の教祖さまに対する粋な計らいが読み取れます。因(ちな)みに、前年の祝祭の後、神奈川県令と松方正義内務卿宛に「扶桑教会丸山教会本部」設立の願い出が出されており、一年余りかかりましたが、内務卿より「書面(しょめん)之(の)趣(おもむき)聞届候(ききとどけそうろう)」との許可書が下がって、晴れて公認の宗教団体となっています。教団史の中でも明治十四年のこの年は、一つの節目となる重要な年と申せます。
御本殿(以後御法殿)の内陣(御神前)には、教祖さまのみ教え・お開(ひら)きされた由来のものがいくつも飾られております。
御神前正面一番奥には、尺のお日の丸が掛かっていて、これは他の御神前と同じですが、外には矢取泰國天(やとりたいこくてん)と八咫(やた)の法(ごほう)のお掛物が掛かっており、親神さまと親子の契(ちぎ)りを結ばれたことを示す三つ盃、火水和合の理を表す石臼や熊手箒、参明参天の鉄の棒なども供えられています。今回は紙面の都合もあり、ここでは内陣の長押(なげし)に掛かっている天王幣(てんのうへい)について参考までに申し上げたいと存じます(御法殿の詳細については、平成二十八年八月一日発行の神の光一〇八二号の丸山教の由来5に掲載しています)。
天王幣というのは、家の上棟式の時に立て飾る大きな幣串(へいぐし)です。一般的には牛頭天王(ごずてんのう)を祭る幣で、疫病除(えきびょうよ)け、鬼門除(きもんよ)けで、方位方角の信仰に由来します。恐らくこの御法殿の天王幣は、御法殿の上棟祭の時に使ったものをそのまま教祖さまが御神前の長押にお掛けになられ、以後天祭毎に白扇、麻の束、五色の布などを新調して踏襲(とうしゅう)して来ております。では、教祖さまが天王幣を御神前にお掛けになられたその理由(わけ)というのはどのようなことだったのでしょうか。
丸山教は一切万物天地の神と同根同体ということを信仰していますから、東西南北、これ皆親神さまの御たんせい下さる世界で、良い方角、悪い方角ということはなく、皆有難い「(まるす)」の世界であると受け止めます。そこで教祖さまは、この理を誰にでも解るように上棟祭の天王幣を御神前にお掛けになって、これは牛頭天王を祭る天王幣ではなく、親神様の御たんせいをお祭りする「天農(・)幣」であるということをお示しになられたのでした。天農とは、天の物作りということで、親神様のことであります。ですから、丸山教ではあくまでも天農幣であって、「日々(ひび)是(これ)好日(こうじつ)」方位方角、日の吉凶は信じないのであります。
御法殿の御屋根、建立以後は茅葺屋根ですので、二十年程経過すると所々茅が劣化し、その傷んだ部分に茅を差し込んでふさぐ「差し茅」という補修を行いながら、三十年位の間隔で、屋根全体の茅を葺き替えて維持してきましたが、戦後は都市化が進み、近代化した文化住宅にとって替わると、茅葺職人もいなくなり、昭和五十三年になりますと葺いた茅も傷んできて雨漏りが始まりました。早速に手当を施すべく、当時は防火の上から茅を銅板で包む「包(くる)み葺き」が良いとされ、予算面でも折り合いがついたことからその手法で修理を行いました。
それより四十年余りが経過し、さすがに中の茅も劣化し、屋根全体にひずみが出るなどの老朽化は否(いな)めず、屋根の基礎から根本的に手直しする大改修の必要性が生じて今回の事業となりました。
請け負う業者をご紹介申し上げますと、屋根については川崎市宮前区南平台で有限会社吉澤板金を営む吉澤澄夫氏です。この方は、社寺建築銅板工事を主として、数多くの社寺の屋根を手掛けていて、若い頃には全日本板金工業組合連合会青年部全国技能競技大会で優勝し、労働大臣表彰を受けるなど、現代の名工と言える腕前です。実際に大教殿の大屋根の千木(ちぎ)が台風で転(ころ)がり落ちて、屋根の三か所に大穴を開(あ)けましたが、直ぐに来て応急処置を施し、その後の本格修理では細かく銅板を差し嵌(は)め、また、千木も元通りに納めて雨漏りを見事に止めてくれたのでした(写真)
屋根の解体及び改修工事は、数多く現場を共にした吉澤さんがその腕と人柄を見込んだ千葉県千葉市若葉区千城台で株式会社八重建築を営む中村修司氏を紹介して下さいました。専門が社寺建築のほか、古民家の再生を手掛けるなど一級の腕前の持ち主です。御法殿の東側の土台の木材は、雨が吹き込んで経年劣化して腐(くさ)った状態となっており、また、向拝も前に傾斜し修復の必要が生じています。茅葺の屋根が外れて建物全体が軽くなった折に土台の横材を入れ替え、また、向拝の柱も継いで元の高さに調節するそうです。山門の腐った太柱を継いだ写真がありますが、見事に仕上がっています。中村さんは、昨年本教の富士登山にも参加され、ご一緒する中で神仏、大自然の恩恵に対する畏敬(いけい)の念も強く持たれていて、将来が楽しみな宮大工さんです。
工期は二月頃からフェンスを施し、足場を掛けて先ずは屋根の解体工事に入る予定ですが、完工までには年内一杯掛かる見込みです。屋根の葺き替えは今後六十年の年月に耐えるそうですが、明治の時代、教祖さまのお人柄、み教えを信奉したご先祖が遠路を厭(いと)わず参集し、河原の石をめいめいが運んで、それが御法殿の地形石となったことを受け、奉賛会のたんせいとは別に、御屋根の銅板のたんせいを致したいとのご要望を信徒さんから頂いて今回の仕儀となった次第です。
ご芳名を銅板にお書き頂き、ご記名の面は伏せて使用するため、屋根完成後は見えなくなりますが、消えることはなく次の屋根葺き替えまでご芳名が残るそうです。今を生きる記念にご賛同賜りましたら幸甚です。皆様のご芳志を心よりお願い申し上げます。