歴史

丸山教の歴史

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KIF_0187.JPG教祖 伊藤六郎兵衛

武蔵国橘樹郡登戸村字富士塚(現神奈川県川崎市多摩区登戸)、農業清宮源六様のご次男として文政12年7月15日にお生まれになりました。幼名を「米吉(よねきち)」といい、14歳から24歳まで隣村宿河原の叔母の家で百姓奉公を勤めた後、伊藤家の婿養子となり長女サノ様とご結婚。名を「六蔵(ろくぞう)」と改め、後に家督相続して家名の「六郎兵衛(ろくろうべえ)」を襲名しました。

幕末から明治にかけての動乱期、民衆が困窮するのを憂いて、「日本六十余州、八百万の神という。どこかにこの窮状をお救い下さる本当の神がありそうなものを」との救済の精神による神たずねの修行がはじまりです。明治3年に元の祖神から神示を受け、「天下泰平、普く人助け」の本願を立てて開教するに至りました。明治元年より20年旧8月16日までに「16,606座の難行苦行の修行相済む」と仰せられ、この後の「十国柱」、「御法塔」の建立により教義の完成を示されました。なお、この頃より修行の顛末、教えなどを後世に残そうと、お里帰りの直前まで足掛け8年に亘り日記風に書き続けた経典『お調べ』は全体で35万字に上り、これが本教の教義の原典となっています。明治27年3月30日ご帰天。

二世教主1.jpg第二世教主 伊藤国義

教祖様の妻、サノ様の妹キノ様と当麻又左衛門様のご三男として、安政6年(1859年)2月2日にお生まれになりました。文久元年(1861年)2歳の時に教祖様サノ様ご夫婦の養子となり、明治27年3月30日教祖様ご帰天後、二世教主として法統を継がれました。

二世就任5年目の明治32年11月6日より約半年間に亘り、教団の引き締めを図るため、奥伊豆の天城山中にある仙人窟に籠もり観法修練の大行を決行され、修行の終盤には「仙人窟の丸山大行者」と言われるようになり、多い時には日に百人を超える人々が尋ねたと伝えられています。明治36年「神教(神経)」一巻を著し、祭儀の主軸をなす経典を形成しました。明治41年2月21日ご帰天

三世教主1.jpg第三世教主 伊藤六郎兵衛

丸山教二世教主・イノ様のご次男として明治16年11月17日にお生まれになりました。号は葦天。俳人・郷土史家でもあります。
 
明治41年(1908年)2月21日父国義様(二世教主)の帰天後、法統を受け継ぎ三世教主に就任されますと、明治43年2月に機関紙「神の光」を創刊し、本庁と地方との連絡、また、教えについての正しい認識の普及徹底を図り、さらには丸山教教学寮を組織して、これを母体に教師養成講習会(後の教校)を制度化し、地方における指導者、中堅教師の育成を図るため、定期的に開会することを計画し実行に移しました。また、教団幹部とともに巡教を行い、教団の活性化もはかっています。
 
なお、教義面においては根本教典である教祖様が書いた「お調べ日記」の校註活字本の発刊を計画して、その校訂に着手しましたが、大正12年関東大震災による大教殿倒壊にあい止むなく中断しました。しかしこの時の校訂本は「大正校訂本」と呼ばれ、昭和52年に出版された校註活字本の元となっています。戦後は昭和27年に宗教法人として教団を独立させ、教義のお開き・解明に力を注ぎ、「おさとし」「松霊拝詞」等の経典を著しました。昭和49年6月17日ご帰天。

四世教主.jpg第四世教主 伊藤光海

丸山教三世教主のご長男・副教主伊藤 等様・和子様のご長男として昭和24年11月21日にお生まれになりました。父の伊藤 等様が昭和37年11月18日にご帰天後、13歳で副教主を襲名され、祖父三世を助けて教団の諸行事の中核を担いました。昭和49年6月17日三世のご帰天後、法統を継ぎ、四世教主に就任されました。
 
三世の組織した機関誌神の光の刊行、地方における指導者・中堅教師の育成の為の教校の開催、巡教等の布教方針を踏襲し、また、教祖帰天後10年毎に行われる天祭を通じて記念事業に積極的に取り組み、劇画本の出版や会館・松霊殿などの建立をなして教団の近代化を図っています